〈京の庭の巨匠たち1〉
『重森三玲 永遠のモダンを求めつづけたアヴァンギャルド』
The great masters of Japanese Gardens 1 SHIGEMORI Mirei, Japanese Garden as Spiritual Spaces

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●庭と京都
「奈良の仏像、京の庭園」という格言がある。奈良を訪ねたならば仏像を見ずにおくものか。
奈良の仏像はそれだけ秀逸で別格だ。京都に旅したならば、名だたる庭を訪ねみよ。
そこで得た知見・体験はあとあとまでも生きてくるぞというような意味だ。
もちろん、奈良か京都のどちらかが負け惜しみで標榜しはじめた格言かもしれないのだが。
いずれにしても京都は、日本庭園と京都庭園とは同意語であるほど、庭づくりの完成度を高めた。
それでは、京都以外の土地に優れた庭園がなかったのかというと事実はその逆で、
古い時代の個性的な庭は、日本各地で見ることができる。
大分県の宇佐八幡宮の庭や岩手県平泉の毛越寺などは日本の庭の原型をいまに残している。
そういうなかで「京都庭園」が独自の発展を遂げたのは、
例のごとく長く続いた都としての京都の得意技を発揮した結果である。
権力でもって情報を集め、財力でもってエッセンスを取り出し洗練させることに長けていたうえ、
多くの宗派の本山を一手に引き受けたような宗教都市は、庭を宗教の精神性と一体化させることに成功したのである。
岡山県の僻地で生まれたものの、東京の美術学校に学び、京都で芸術活動をはじめた重森三玲は、
そういう京都で多くの庭に触発されるにとどまらず、
あらためて日本の庭の原点を学ぼうと日本各地の古典的な庭を訪ね歩くことにした。

●重森三玲の挑戦
茶人あるいは華道家として知られていた三玲だが、
石や庭については素人同然の40歳にして日本各地の庭園の実測調査に行脚をはじめることになる。
ことの発端は、京都の庭が室戸台風によって受けた被害。
修復しようにも充分なデータが残されていない実情に驚愕した三玲は自ら立ちあがったわけである。
文人的な深い教養を積んできた三玲だからこその危機感があったのであろう。
豊かとはいえない三玲だったが、各地の350ほどの庭を訪ね、
実測し、写真を撮り、絵にしたうえで、古文書などを書き写した。
自費でもって進められたこの作業は3年を要した。
この調査をとおして、三玲は庭の発生と展開の経緯、庭に込められた精神、
仏教や古来の宗教との関わり、伝統的な技法と基本などなどを修得することになる。
日本の庭園の伝統をつぶさに、科学的に分析して、日本で最初の庭園の研究書を完成させるのである。
これが『日本庭園史図鑑』(全26巻)であり、調査した350ほどの庭のうちの243の庭を抜粋して掲載している。
刊行を終えたのは、第二次世界大戦間近の1939年である。
三玲はやがて、自ら作庭にとりかかる。
師匠は自ら蒐集したデータであり、日本各地の優れた庭そのものである。
その手始めが本書でも大きくページを割いている東福寺とその塔頭の庭である。
その後の三玲は、亡くなるまでの約35年のあいだに200もの庭を完成させる。
堰を切ったように作庭にエネルギーを発散させるのである。
三玲は、晩年になって第2回の調査をはじめている。
1971年、75歳にして桂離宮など130庭あまりを調査している。
これが『日本庭園史大系』(全35巻)で、刊行を終えたのは、三玲死去の翌年1976年のことである。

●まっ二つに分かれる三玲の評価
そういう重森三玲は、「日本庭園とはなにか」という問いに、どう答えることがふさわしいと考えていたのか。
造園学や建築学などの視点からそれなりの答えは用意されているものの、
その視点の多くは日本庭園の特徴的な要素を西洋の庭と対比させることで定義とするにとどまっている。
しかも、ていねいに説明しようとすればするほど陳腐なものになってしまうから、
ネット上の百科事典「ウィキペディア」の解説を読んだたいていの日本人は吹き出してしまうことになる。
長い歴史のなかで築かれた伝統的な形式や素材を意識しながらも、
作庭家はそれぞれの作庭意図とにもとづいて多様な庭をつくってきた。
決まりごとを守る一方で、伝統という束縛から開放されようと苦闘する作庭家もいる。
時代の流行もある。西洋の絵画と同じような道を歩む。それがアートの世界の宿命だといえる。
本書が取りあげた重森三玲は、なかでも複雑な創作行動を起こした作庭家の筆頭ともいえる人物である。
中国の道教やインドのバラモンなどの影響を受けた形式を踏襲するかと思えば、
仏教が指し示す価値観・宗教観を具現化する。
その一方では、庭の発生を日本古来の磐座・磐境信仰と結びつけ、巨石を多用した庭をつくろうとする。
本来、自然の素材である石、砂、水、木、苔などを組み合わせることで
なにかを表現するのが日本庭園の基本だというと、三玲はこれに逆らうようにコンクリートを庭に持ち込む。
神聖な空間にのみ使用することが不文律になっていた白砂を、日常空間に持ち込む。
新しくないと価値はないとも考えたのである。
その意味で、重森三玲とは、死ぬまで「永遠のモダンを求めたアヴァンギャルド」であり続けた男のことである。

●本書の特質
このような男の庭は、アートである。
そういう彼の作品である京都の庭を写真と解説で紹介したのが本書である。
時代も作庭家も問わず、ただ美しいからとばかりに
十把一絡げに1冊の写真集に収める従来の写真集とは一線を画した。
三玲の年譜や専門用語の解説も加えて、アーティストとしての三玲の美意識と精神、
芸術觀、創作の苦悩といったものを読者に感じていただければという願いを込めている。
本書の重森三玲論的テキストを書いているのは、三玲の門人であり、
現在は作庭家として国際的にも活躍する野村勘治氏である。
座談会の出席者は、三玲の三男のゲイテ氏、
それに門人の小野雅章氏、齋藤忠一氏、佐藤昭夫氏、野村勘治氏である。
生前の三玲の謦咳に接し、影響を受けたかつての若者たちである。
さまざまな記憶がなまなましく語られ、重森三玲論を形成するうえで欠かせない貴重な資料となっている。
三玲が高い評価を集める若者や外国人のために、英文とのバイリンガルにした。
数ある三玲の作品のなかで京都の庭にしぼったのは、この書をもって京都を訪れ、
実物の庭にふれていただきたいからである。
そのために所在地情報も掲載した。石の庭を前にして、なにかを感じてほしいのである。
そのなにかとは、「創造するエネルギー」である。
なお、本書の編集を担当したマレス・エマニュエルは、京都の国立大学の博士課程で日本の古建築を学び、
庭師のアルバイトで庭と植栽を実践的に学んだ日本滞在歴7年の29歳のフランス人。
Ph.Dと合気道3段の資格をもち、尺八をたしなむ。
仕事を離れると着物姿で自転車にまたがって京都のまちを散歩するという一所懸命に生きている青年。

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