〈京の庭の巨匠たち2〉
植治 七代目小川治兵衞 手を加えた自然にこそ自然がある』
The great masters of Japanese Gardens 2 Ueji,The Genius of Water and Stone

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本書の特徴と類書

植治の作品を紹介し、比較的手にいれやすい一般的な著作に以下のものがあります。

◇尼崎博正編、田畑みなお撮影『植治の庭──小川治兵衛の世界』淡交社、1990、定価16,311円(税込)
◇尼崎博正著、田畑みなお撮影『石と水の意匠──植治の造園技法』淡交社、1992、定価16,311円(税込)
◇尼崎博正監修/写真・田畑みなお『對龍山荘──植治と島藤の技』淡交社、2007、定価42,000円(税込)
11代小川治兵衞監修『「植治の庭」を歩いてみませんか──洛翠庭園・無鄰菴庭園』白川書院、2004、定価2,100円(税込)

◆99点のカラー写真を掲載
 じつは、この書は頭書に掲げた淡交社刊『植治の庭──小川治兵衛の世界』で掲載したのと同じ写真をかなりの枚数使用しています。
すでに絶版にされた淡交社さんのご了解をいただいたうえでのことです。これに新たに撮影した並河靖之七宝記念館、無鄰菴、何有荘を掲載しています。2,500円(税込み)という価格でこれだけの庭園の写真を掲載することができたのは、そういう淡交社さんのご配慮と田畑みなお氏の蓄積の賜です。
 田畑氏の99点のカラー写真は、すべて4×5インチのフィルム。色あせることもなく丁寧に保管されていました。美しく印刷できたのは、ひとえに田畑氏の写真の高い質ことによります。


◆植治の仕事ぶりを紹介する普及版
 本書は、淡交社さんが庭や建築の専門家にむけて豪華な保存版として出版されたのにたいし、本書は京都の文化、日本庭園に関心のある人びとに、植治の仕事ぶりを紹介する普及版です。とはいえ、植治のこだわり、作風の変遷を、植治の仕事のなかでも重要な庭園にしぼって紹介することで、植治を再評価するうえで新たな材料や視点を提供できたと自負しています。
 なかでも、並河靖之七宝記念館、何有荘を本格的に紹介したのは、本書が最初です。植治の庭としてはもっとも初期の並河記念館の庭にはじまり、遺作となったウェスティン都ホテルの庭にいたるまでの主要な仕事を時系列に紹介する構成です。

◆作庭コンセプトを異にした庭
 このあいだをつなぐ庭が、植治の作風を確立させる大きな契機となる山縣有朋との出会いの場となった無鄰菴、事業で成功を収めた豊かな財界人たちが趣向を凝らして園遊会や芸能を楽しめるようにした碧雲荘(野村得庵の別邸)と何有荘(稲畑勝太郎氏の屋敷)の庭園、文人墨客たちの交流の舞台となるよう粋を凝らし自らも文人的人生を送った清水吉次郎氏の十牛庵(現高台寺土井)、日本初の庭園型公園にしたてた円山公園や平安神宮神苑などの公共空間です。このように作庭コンセプトやデザインなどを異にした庭を取りあげています。いずれも、植治を語るうえで欠かせない庭園です。

◆植治の生涯と作品の巧、楽しみ方を説く多彩な執筆陣
 このような植治の庭を理解する先導役を果たしていただいたのが、監修を果たしていただいた白幡洋三郎氏(国際日本文化研究センター教授)をはじめとする方がたです。植治研究の第一人者である尼崎博正氏(京都造形芸術大学教授)、庭園を文化財としての視点で捉える小野健吉氏(文化庁主任文化財調査官)による解説。加えて、谷晃氏(茶の湯文化学会会長)、永田萠氏(イラストレーター)、笹岡隆甫氏(華道未生流笹岡家元嗣)、白幡氏による座談会「文化的景観としての植治の『自然』」は、植治の庭の楽しみ方を示唆しています。

◆植治、自らを語る
 もう一人の案内役が、植治自身です。明治期の美術評論家の黒田天外が植治にインタビューした記事を再録したもので、植治が生の言葉で、人生や作庭觀を語っています。原典はほとんど現存せず、一部の研究者がコピーで所持されているていどです。これを原本に忠実に掲載しています。植治の人となりを伝えるだけでなく、研究者にとっても貴重な資料となるはずです。

◆植治という人間とその時代の息吹をお伝えしたい

 植治の作風と庭に込めた思い・美意識を紹介するだけでなく、植治という人間の生涯とその時代の息吹のようなものをお伝えできればと願いつつ編集作業を進めました。
 重森三玲同様、京都市内または近郊の庭に限定して紹介しているのは、この本を手に植治の庭を総覧していただきたいからです。「京都の庭」というくくりで時代も作庭家も意識せず見てまわるのでは、庭についての知識、作庭家の美意識を捉えることは難しいように思います。作庭家ごと、時代ごとに異なった美意識や価値観を深く理解することによって、京都の庭園、日本庭園というものがどういうものであるか、その理解は深まると考えています。
 私たちがこの本を通じて伝えたいのは、そういう作庭家とその作品への理解という名の愛着・愛情です。


◆本書を手に植治の庭をめぐってください

三玲は、三玲という人となりを伝えることに主眼をおいたが、植治については植治がいきた時代というものを、庭園との関わりで表現したつもりである。じつは、京都の文化との関わりにももっと言及したかったのであるが、紙幅のこともあって充分とはいえない。

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もくじ

◆植治、自らを語る
聞き書き・黒田天外 美術評論家

◆七代目小川治兵衞
小野健吉 文化庁文化財部記念物課主任文化財調査官

◆五感で味わう庭──植治の感性表現と意匠
尼崎正博 京都造形芸術大学日本庭園・歴史遺産研究センター所長

◆庭と解説
並河靖之七宝記念館庭園
無鄰庵庭園
平安神宮神苑
何有荘庭園(旧和楽庵)
円山公園
碧雲荘庭園
高台寺土井庭園(旧十牛庵)
「葵殿庭園」と「佳水園庭園」(ウェスティン都ホテル京都)

◆文化景観としての植治の「自然」〈座談会〉
白幡洋三郎 国際日本文化研究センター教授
笹岡隆甫  華道未生流笹岡家元嗣
谷 晃   野村美術館学芸部長、茶の湯文化学会会長
永田 萠  イラストレーター、絵本作家


◆時代思潮と植治
白幡洋三郎

◆インタビュー
佐野藤右衛門 桜守、植藤造園16代目当主
矢ヶ崎善太郎 京都工芸繊維大学大学院准教授
森本幸裕   京都大学大学院地球環境学堂教授
笹岡隆甫
谷 晃


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※本著監修の白幡洋三郎先生が平成20年3月9日発売の京都新聞1面で紹介されました。
「植治の庭」迷いなき和心


 そろそろ「水ぬるむ」が頭に浮かぶ頃。どこかへ出かけたいと思う気持ちがわいてくる時期でもある。小雪が舞ったり、寒風が吹きつけたりした翌日、一転うららかなお天気になると、私は外出したくてむずむずしてくる。そんな時、選ぶ行き先は庭が多い。

 京都の庭というとお寺の庭が思い浮かぶ。有名な寺院は見事な庭を持っているのが京都の常識である。 けれども仏教寺院に必ず庭園が備わっているわけではない。仏像では有名な奈良の寺院が、庭は貧弱であることが多い。京都の寺院が庭に恵まれ、奈良の寺院に庭が乏しいことの理由は都市的な奈良仏教と山林・修行的性格の平安仏教の違いによると私は考えている。この問題は庭園史と日本仏教史をつなぐ興味深いテーマだが、ここでは指摘だけにとどめよう。

 歴史の古い寺の庭だけでなく、京都は明治維新の後、全国に先駆け近代的な日本庭園の文化もつくりだしたという点に注目したい。代表例は南禅寺界隈に生まれたいくつもの庭園、「植治の庭」である。

 植治とは造園家小川治兵衛。万延元年(一八六〇)に、現在の長 岡京市に生まれ、明治十年(一八七七)小川家に養子で入り、のち七代目小川治兵衛を名乗った人物である。その代表作には、無隣庵庭園、対竜山荘庭園、碧雲荘庭園、織宝苑など、東山山麓、南禅寺付近に明治の政財界人が持った別荘の庭園がある。また、平安神宮の庭園や円山公園といった近代の公共園地も植治の作庭である。

 植治が伝統的庭園を超える造形活動に踏み込んだのは明治政界の元老、山県有朋と出会ってからである。二人は、明治二十七年(一八九四)から二十九年にかけて、山県の京都別邸・無隣庵を作庭した。

  無隣魔の特徴は、主屋の前に広がる芝生と二筋のせせらぎ、その水が集まる池というよりは浅瀬の広がり、そしてこれを中心に園内をめぐる回遊路、さらに雄大な東山を背にした滝である。水がきらめく広々と明るい庭は、近代土木工事の成果である琵琶湖疏水を利 用して生まれた。

 施主である山県有朋自身、従来の京都の作庭を古くさいと批判し、広壮な庭園を自分流でつくりたいと宣言していた。しかし山県の意を汲んで新しい庭づくりを目指す植治も、単純に日本風を捨て西洋風を真似ることは決してなかった。当時は、歌舞伎や邦楽や日本画が古くさいと批判され、西洋演劇、洋楽、洋画が支持を広げていた時代である。

 多くの日本芸術が西洋風を模範にして少なくとも一度は自己否定の混乱に陥った経験を持つ。しかし日本庭園にはほとんど迷いがなかった。庭も近代化=西洋化を目指し、奇抜な噴水や咲き乱れる原色の花、幾何学模様の刈り込みなどを取り入れてもよかったのに。 どうしてそうしなかったのか。なぜなのか。植治のことをもっと知りたいと思っている。


白幡 洋三郎
1949年、大阪府生まれ。京都大大学院農学研究科博士課程修了。農学博士。専門は造園学・産業技術史。著書に「大名庭園」「近代都市公園史の研究」など。
(以上、平成20年3月9日発売の京都新聞より抜粋)

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植治とはなにか

明治も間近い1860年、京都近郊の長岡京市に山本源之助として生まれる。
咸臨丸が日米条約批准のために勝麟太郎らを乗せて太平洋に乗り出した年である。
やがて、17歳で養子として入った小川家は江戸中期からつづく植木屋、屋号は「植治」。
しかし、ほどなく養父は急逝。19歳で七代目小川治兵衞を襲名するも、師はいない。
独学で作庭法を学ぶうちに、長州の政商・久原庄三郎を介して、
欧米の事情や文化を視野に入れつつ行動する山縣有朋、中井弘、伊集院兼常ら
薩長出身の政財界人と出会い、新しい時代の思潮、西欧的な暮らしを学び、作庭観を一変させる。
同時に、山縣らがそうであったように、異文化を知ることで逆に、
日本の伝統文化と美意識に自らのアイデンテンティを求めた。
維新という革命をへたこの時代は、新しいものを受け入れることに躊躇しない革新と変革の時代。
植治は、政財界人や華族の庭のみならず、円山公園などの公共庭園に取り組むことで、
まったく新しい日本庭園の姿を生み出す開拓者となった。
小川家は現在、十一代目小川治兵衞と小川勝章が、その精神を受け継ぐ。



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植治、自らを語る
聞き書き・黒田天外*1

明治四十三年四月一日夜、関西切ての園芸の名家、小川治兵衞氏を白川ゝ畔の宅に訪ふ。
床に菘翁*2「無事便深山」の五字を幅を掛けたるが、語意携永にして坐ろに主人の心地を想はしむ。
主人と余と十数年の夙好、尾尾として語る。曰く

お話のやうに園藝も大分進歩して参りました。昔、小堀遠州が桂の離宮を造るに三年かゝつたと云ひますが、
なに金さへあつたらそんなにかゝらずとも今日ではもつと早く出来ます、
先づざつと地面を見渡した處で、此(この)庭園はどう作るがよい、こゝの處は何の石がよい、
こゝの處は何の樹がよい、こゝをかう疎にして、こゝをかう密にして、こゝに流れをつけて、
こゝに池を作つて、月は何處から上る、秋になるとどの邊になる、日光でも日の長い時はどう、
短い時はどう、そして費用はどうと、長年やつて居ることでございますから、大概目算がつきまさァ。
それに庭園に定つた好みなどないのは、一に地形によるからでございます。
今度住友さんが茶臼山に別荘*3をこしらへられるのでございますが、総地坪が四万坪で、
其の半分の二万坪は庭園になるのでございますから、昔なら秀吉公の仕事どすな。
私のいつたのは昨年からですが、全部任すといふことで先づ三年位はかゝりませう。
何分(なにぶん)大阪城を築いた地勢ほどあつて、庭石でも四国からどんどん五千貫、
七千貫といふのが何百と知れん程集まつてまさァ、あれが出来れば関西第一で、
岡山公園など兎(と)ても及びますまい。
ヘィ、私は乙訓郡西神足村*4、字馬塲山本彌兵衞の三男*5で、幼名源之助と云ひました。
槇村知事*6の時分に、私と他の者二人とを郡から選抜して、何か学問をやらすとのことでしたが、
私は学問よりかう云ふ方が好でそれを断はり、十七の歳に小川家へ入家*7して、
先代の名の治兵衞に改めました。この小川家は私で五代目*8になりますので、
初めは園藝の稽古も、やはり天地人*9とか、五行*10とかいふことを正直に学んでやつて居り、
また三十四五まではやはり樹へ昇つてチョキンチョキンとやつて居りました。
處(ところ)が山縣*11さんが無隣庵をお作りになることゝなり、
五尺くらいの樅(モミ)を五十本栽へろといふ仰せつけでしたが、
其(その)頃樅などゝいふものは庭木につかいませんので一向なく、
漸(よう)やく方々から集めて調へましたが、
只今では何處(どこ)の庭園でも樅を多く用ひ、またどうだん、柊、南天などを使ひますのも、
山縣さんが嚆矢(こうし)でございます。
その後平安神宮の神園を作るにつき、山縣さんへ行て居る植木屋を呼べとのことで私が命ぜられましたが、
三千坪からの處を千圓や千五百圓でいけさうな筈(はず)がない、
丁度倍額ほど入たが出してくれといふても出してくれませず、
其頃は未だ隋分苦痛でございましたが忍んで之をやり上げますと、
今度は博物館の庭園を作れとのことで一万坪からあつて野原のやうな處を一月や一月半でやつてのけましたが、
此頃から少し私の名が知れましてございます。
つゞいて、久原*12さんの庭、清水*13さんの庭、市田*14さんの庭と追々作り、田中*15さんの庭もなほす、
其他今日では京都は固(もと)より、桃山、大阪、須磨、垂水、御影と各処に人をやつて、
大抵一軒や二軒の庭を造つて居り、この三月の末には富山県庁の貴賓室の庭園も設計致しました。
それで私が今日にまでなりましたのは、全く山縣さん、中井弘*16さん、伊集院兼常*17さん、
此の御三人の御蔭で、伊集院さん程の名人は滅多(めつた)にございません。
普請といひ、庭園といひ、先づ近世の遠州公どすな。
昔の庭園など寂がつくので自然によい筈で、假令(たとえ)ば木一本でも、風に揉(も)まれ、
雨に打れ、根は張る、枝は茂る、自づとよくなります、其事を思ふと、今やつたやつはよいとせんなりまへん。
夫(それ)に庭園などでも時勢につれて変更せんならんので、今日では寂(さび)一方ではいきまへん、
やつぱり園遊會でお客の二三百人ぐらゐいられる芝原の必要も生じて来ますから、
此方では市田さんの庭など少しも差支(さしつか)へありませぬ。
私は阿誰(だれ)にも遠慮せん方で、気張てまともの事をしたら、三つの御辞儀を四つせんならんことはない。
而(しか)して大きな處に目度をつけて、心で小さく踏(ふん)でいきます。
何分(なにぶん)此家を先祖から受取たのやから、夫(それ)を辱かしめん様にやりたいつもりで、
平日でも代物(しろもの)*18しこむにも骨が折れゝば、新奇な燈籠にもいろいろ考案を運(めぐ)らさねばならず、
両方やつて居るからどつちも十分にいけんのどす、然(しか)し年は未だ五十一ですから、
まだまだ之(これ)からやりますつもりで。
ハイ、伜(せがれ)の白楊も病身であつたから写真をやらせましたが、お陰で身体は壮健になり、
また写真をとるに位置を苦心しましたのが、計らず庭園を作る上について大きに役に立て、
考へが早くつきます、それで私の代理に方々へやつて居りますので。

氏質性撲実堅確にして、毫(ごう)も賁(ふん)飾を用ひざるも、実力名技の在る處、
富豪貴紳争ふて礼を厚くし之を聘(へい)し、其作意に成る名園今日既(すで)に十余を以(もっ)て数へ、
小なるものは僂(ろう)指するに暇あらず、実に造園の名家と言ふべし。談話三時許(ばかり)、辞し帰る。

 

*1黒田天外 美術評論家であり小説家、宗教家。
本文は、天外著『續々江湖快心録』(1922年)所載の「園藝の名家」から抜粋した。
読み仮名は編集部の判断による。漢字は新字に置き換えたが、そのほかは原文のままとした。
『江湖快心録』は、本編のほか、續、續々の三部作。黒田は、明治期の京都の画家、工芸家などのアーティストの聞き書きを数多く残している。

*2菘翁 貫名菘翁(ぬきな・すうおう)(1778〜1863)のこと。江戸時代の書家で幕末の三筆の一人。
*3別荘 住友家第15代当主の住友春翠別邸「慶沢園」庭園のこと。
1909〜1910年に作庭。規模は小さくなったが、天王寺公園の一部として公開されている。

*4乙訓郡西神足村 現在の長岡京市。
*5山本彌兵衞の三男 正しくは山本藤五郎の二男。
*6槇村知事 京都府の第二代知事を務めた槇村正直(1834〜1896)のこと。長州の人。
*7入家 婿入りすること。
*8小川家五代目 正しくは七代目。
*9天地人 天と地とその間にある人で宇宙を表現する作庭規範のひとつ。
*10五行 万物を構成する木・火・土・金・水の相互作用ですべての物事・人事が進行すると説く。
作庭の規範のひとつとして『作庭記』をはじめ江戸期の秘伝書にいたるまで、この思想に基づく記述が見られる。

*11山縣 明治・大正期の政治家であり軍人の山縣有朋(1838〜1922年)のこと。植治に無鄰菴の作庭を依頼。長州の人。
*12久原 明治の実業家、久原庄三郎(1840〜1908年)のこと。若き植治を山縣有朋の庭を作庭することになった。長州の人。
*13清水 明治・大正期の大阪の実業家、清水吉次郎(1875〜1949年)のこと。植治に十牛庵(現・高台寺土井)の作庭を依頼。
*14市田 実業家の市田弥一郎(1843〜1906年)のこと。植治に對龍山荘の作庭を依頼した。
*15田中 大阪の実業家であり政治家田中市兵衞(1838〜1909年)のこと。角倉了以のかつての本邸を購入し植治に作庭を依頼した。
*16中井弘 京都府の第五代知事を務めた中井弘(1840〜1894年)のこと。薩摩の人。
*17伊集院兼常 薩摩出身の明治の政商。植治に作庭の知識と考え方、機会を与えた。1836〜1909年。
*18代物 材料、販売する商品のこと。

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