「楽しくなければ人生じゃない」
「楽しくなければ人生じゃない」をポリシィーに生きてきた近藤は、「将来を見据えて行動するしかない」と決意して厳しいリハビリに立ち向かう。医師が止めても挑戦を止めない。リハビリのために、山形から名古屋に転院し、可能性を求めてさらにアメリカにまで出かける。もがき・あがいての日々であり、挑戦である。その荒む心を紛らわせてくれたのは、お酒だった。
人生の第二ステージ
健常者としての42年間を人生の第一ステージとするなら、車いすの経営者は第二のステージをリハビリとビジネスに求めた。自ら起業した「株式会社 建装」は、近藤の検証東日本大震災にも見舞われるなかで、安全で快適な暮らしを提供する家とはどのようなものかを検証する機会となった。障碍者や高齢者が居心地よく過ごせる家づくりに、障碍者としての自らの生活体験から工夫とアイデアを絞りだした。そのための勉強と研修にお金を惜しまなかった。つねに、前を向いて生きていたかった。「チーム棟梁」の気球も手に入れた。後悔の心は捨てていた。
障碍者福祉が仕事の第三ステージ
長男に家督を譲ったいまは、設立した「共同組合 生活住環境整備山形」は、患者・病院・行政を結ぶ懸け橋である。介護の質の向上をめざしてNPO法人も設立した。社会に責任をもつ行動をと願って、地域社会との連携と交流を意識して日本一小さな村 ゼロポイント・フィールドの施設も建設した。波乱の大きな人生である。
熱気球事故/宮城県の事故現場から山形の病院へ
著者 近藤 敏明(こんどう・としあき)の紹介
1950年、山形県山形市に生まれる。18歳で大工見習として父親に師事。26歳で棟梁、1982年には3代つづいた自営業を「株式会社建装」に改組し、代表取締役に就任。1993年、熱気球事故で重度の障碍者となるが、アメリカでのリハビリなどを経て現役復帰。障碍者の視点で、暮らしの環境づくりを提案する講演会やワークショップを開催。98年、本業の建築と障碍者に快適な住空間の創造をとおして障碍者を支援する組合を立ち上げ、理事長就任。2006年、福祉事業社を調査するNPOを共同で立ちあげ、副理事長に就任。2011年の東日本大震災後は、住宅事業に専念する。2021年にM&Aで自社を譲るも、組合やNPO法人を通じて現在も障碍者の社会参加を支援している。